| 中高生のためのミュージカル「放課後の国のアリス」について |
川崎市の多摩市民館が企画し、一般公開された作品「放課後の国のアリス」は、退屈な説教には耳を貸しそうもない生徒の心も躍らせる上質のエンターテインメントであると同時に、中高生に社会状況を見据えさせ、どう生きるべきかを考えさせるものでもあった。
物語は、学校祭のリーダーを引き受けるはずだった女子高生の弥生が、不登校に陥った所からはじまる。弥生の幼なじみで中学二年生のありすは、生徒会のメンバー達に頼み込まれ、学校に戻るよう説得するため弥生の行方を探すことになる。その時、旧友に悩みを打ち明ける弥生は、高校中退者が設立したベンチャー企業「リバーサイド・デザインルーム」を訪ねるように勧められていた・・・。
「放課後の国のアリス」は、群像劇である。一方に高校に順応して生きようとする生徒達がいる。他方に、才気溢れる少女を中心に企業を運営し、自分たちの生きる場所をなんとか維持しようとする学校脱落組の少年少女達。その間で、自分の進路を見失った弥生と未来に待ち受ける世界を駆け足で垣間見る中学生ありす。それぞれの立場が丹念に描かれてゆく。そもそも企画の趣旨は、市民館の呼びかけに集った素人の中高生達に舞台経験を提供する事だった。参加者それぞれに見せ場を与えるためには群像劇が最適だったわけだ。
弥生がはじめて訪ねるリバーサイド社は、少年少女が実地で身につけたスキルとセンスを駆使するユートピアのように描かれる。メンバーが弥生に紹介される場面は、ダンスとテーマソングを織り込んだもので、同年代の少年少女が仕事をこなす姿に賛嘆する弥生にとってオフィスはこんな風に輝かしく見えるに違いないと思わせるものだ。圧倒されてオフィスを後にする弥生は、自分に何ができるだろうか、と心細く自問しながら町をさまようことになる。
ここで、音楽と舞踊が生み出す時間は、慣れないオフィスに向けられる弥生のめくるめく視点となって一気に観客を作品世界に導く。再現的技法と幻惑的技法が交差し、観客は単に登場人物に共感するだけではなく、互いの視点が交差して織りなされる場としての舞台に巻き込まれている。その他の、地をなす会話の場面に差し挟まれる数々のミュージカルシーンは、歌によって人格の姿を造形し、会話には還元できない現実の層を具現化する。作品世界を動かす力は、世界の多様性そのままに、歌や踊りによって重層的に提示されていった。
リバーサイド社は、あるフリースクールに居場所を求めた学校脱落者達が、その倒産によって居場所を失いかけた時、運良くキャラクターグッズ商品化のチャンスをつかんで設立した企業という設定。あまりありそうもない話だとしても、現代の日本で若者が会社を運営するのは可能だと挑発された中高生は、思わず学校に通う意味を考え直しただろう。ともかく、職場がどう成り立つものなのかは、実際の企業の雛形のように丁寧に描写されていた。
困難を克服しようとするリバーサイド社の物語が、不況下の日本の世相も踏まえた会話劇として丹念に描かれる時、重要なのは社員達の意志もまた経済的関連において成り立ち、行動の選択も社会的に織りなされると示唆されている点だ。確かな写実的演劇は社会構造の凝縮された結節点として行為を造形する所にこそ成立するということの模範例を提供してくれただろう。
学校という社会もまた精彩に描かれたが、その写実性は中高生をも納得させるものだった。生徒会代表とありすが出会う冒頭では、昔は「ちゃん付け」で呼ぶ仲だった高校生に対し「先輩と呼ばないといけないですよね」と、ありすが恐縮する様子も描かれる。中学や高校では、生徒の間に学年別の階層が成立するが、そこに張り巡らされる微細な権力の網の目も、些細な台詞の端々において緻密に描かれたのだ。
弥生のいない高校で進む学校祭会議をリードするのは、課外活動は内申書に有利と考える計算高い生徒達だ。この場面では、ゆとりある人格教育という政策の下、逆に管理の目に縛られている高校生の実状と、そこに順応して生きる感覚も的確に描かれている。やがて、弥生の不登校という身近な問題を見つめることがきっかけになって、会議では学校祭のメインテーマとして「学校の必要性を問い直す」ことが採用される。
他方、街をさまよう弥生は様々な店を訪れて「私の値段はいくらでしょうか?」というリフレインを繰り返す。コンビニでは時給いくら、他の店では幾ら。ついにはある種の風俗店にまでゆきつく。もちろん、高校生はお断り、と合法的範囲に話は納められるが、この境界を踏み越える高校生が後を絶たなかった現実もこの作品は無視しない。
自分の労働の市場価値に落胆する弥生は、やがてストリートミュージシャンの前に立って「私を買って」と訴えかける。とまどう青年は、そのためらいもまた彼女を追いつめていることに気付いているが、どうしようもない。路上での無償の表現行為が開く人と人の接点が、男女間の抜き差しならない駆け引きへとつながるこの展開は、交換という手続きが交換では終わらない関係をも生み出してしまう所まで描いていると言えようか。間一髪、やっと弥生を見つけたありすがそこに駆けつけて、弥生は救われる。幼なじみのありすは泣き崩れる弥生を抱きしめ、その場で携帯に入った学校祭の案内メールを見て、一緒に見に行こうと励ます。
そして開かれる学校祭のメイン企画は講堂で開かれる模擬裁判だ。被告は、学校。「学校」という札をかけて被告人席につくのは、企画の発案者である生真面目な少女だ。原告側は「学校なんて役に立たない」という弁論を事例を交えてリズミカルに展開する。防戦する被告側弁護人は公教育制度の由来を歴史的に説明し、尋問に答える「学校」はその社会的必要性をメロディに乗せて訴える。ミュージカル仕立ての法廷劇が劇中劇として展開されるクライマックスだ。
そして裁判長の「この件の特別な事情を鑑みて傍聴人の発言を許可する」という宣言の後、原告側、被告側それぞれがマイクを持って舞台から客席に降り、学校についてどう思うか質問してまわる。突然問い掛けられた観客達と出演者の間のためらいがちな応答は素人らしく現実感を漂わしていた。そんな雰囲気のまま最後に答える少女は「高校中退でも、社会で実地に学べばいい」と、訥々と答えてゆく。インタビューが進むうち、それがいつしか客席に座っていたリバーサイド社の社員だったとわかる仕掛けだ。
この機会に商品をPRしたいと申し出て客席から立ち上がったリバーサイドの社員達が「講堂」の舞台にあがるとき、観客は、自分達が「講堂に座る観客」役として作品に取り込まれていると知るだろう。同時に、舞台で進むのが自分と変わらない素人が演じるお芝居だと気付くはずだ。市民館の劇場と学校の講堂が似通った仕方で社会の中にあることも示唆されている。こうして二重三重に虚実が反転する幻惑的な進行は、現実に取材した虚構が虚構として現実であることを示す異化効果も多層的に発揮しながら、観客自身の学校経験を反省するように促すのである。
裁判を進めていた女子高生は、高校中退の社員達に興味を持って質問してゆくが、それはいつしか口論になってしまう。態度や感じ方を同化させる社会的圧力を武器に変えてシニカルに学校に順応しようとする生徒にとっても、社会に出て「別な生き方」を模索する学校脱落者にとっても、互いの存在が不愉快なものと映る。ふてくされる女子高生に脱落組は怒りを隠せない。もはや劇中劇としての法廷劇は崩壊し、学校の意義を代弁していた発案者は涙にくれるばかりだ。
模擬裁判企画の実現を描く事は、直接的な利害を離れて社会について反省できる場としての学校の可能性に希望を託しているが、それが挫折する展開は、社会への順応を求める学校の現実を丁寧に描いていると言える。
一連の場面は、学校での生活に息苦しさや不満を覚えるような中高生の観客にとって、とても示唆に富んだ光景だったろう。模擬裁判を見る観客の中にまぎれていた弥生は、おもむろに舞台に登り、涙する「学校」役の少女の肩にそっと手を触れてなぐさめ、講堂を去っていった。
学校と社会を描くこの作品は、その隙間につかの間成り立つ時間も丹念に描いている。ありすが友達とじゃれあいながら、ぶらぶらと下校する至福を歌い上げる場面がプロローグに置かれ、退学後「リバーサイド」に就職した弥生がありすと再会して放課後の川辺で語らう場面がエピローグに置かれている。未来を見はるかす思春期の視点が据えられているのは、放課後という社会的帰属から逃れた時間、川岸という町や生活の秩序をはみ出した場所なのだ。
おそらく、教育に未来への希望を託し得るとしたら、教育の場が社会のただなかに「どこでもない場所」を生起させる限りにおいてである。この作品自体、そのような場所であることを求めている。この希求を欠いたとき、教育とは社会の抑圧的な安定化装置にすぎなくなってしまうだろう。
初出TalkingHeads叢書No.16 2001年11月、2003年10月改稿
・作者達と方法論、そしてポップさについてのノート
実はこの作品は、即興的演技の小さな試演を積み重ねる演劇ワークショップの手法から出発して創作されたものだ。登場人物それぞれもそこから造形され、弥生が「学校」に別れを告げる結末も、中高生達が試演しながら考えて決めたものだったという。作・演出を手がけた大岡淳は、生活の条件を問い直す力をもつ演劇ワークショップを応用した授業を二年間にわたり高校で行った経験もある人だ。中高生のひたむきな熱意が、真に迫った演劇に結実するための基盤を的確に用意したのは、ワークショップの方法論やブレヒトの演劇論に裏打ちされた大岡淳の技巧である。
音楽は、三宅榛名も評価した先鋭的なバンド「ダた」を率いる国広和毅が手がけ、同時代的感覚に満ちたポップスとして成立していた。アメリカで学んだダンサーJOUの振付も、モダンダンスの伝統を踏まえつつショーダンス的感覚を取り入れたものだった。そんなポップさは、中高生の日常感覚の一部でもあるだろう。その一方、舞台美術はカラフルな立方体を積み木の様に組み合わせるだけで場面を作りあげ、その置き換えによって舞台を転換させてゆくものだった。モダニズムを踏まえたデザイン感覚も、日々の生活でなじみのものだ。二十世紀の前衛芸術を踏襲した舞台にポップな要素が併置されるとき、現代生活の条件をなす文化史的多様性もまた舞台に結晶化されている。ブロードウェイ・ミュージカルも西欧の芸術的伝統からその富を吸収していたように。