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フラウィウス朝
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ウェスパシアヌス |
フラウィウス・ウェスパシアヌスは、9年11月17日にローマ北東のファラクリナエで生まれた。ティベリウスのもとで、トラキア軍司令官、クレタとキュレネの財務官、カリグラの時に法務官、43〜47年にはブリタニア戦争で活躍した。51年コンスル、63年にはアフリカ属州総督になった。ネロとは友人としてギリシア旅行にも同行したが、皇帝の演奏中に居眠りをするという失態を犯した。しかし、対ユダヤ戦争には呼ばれ、67年にはユダヤの属州総督になり軍団3個を率いた。ガリラヤ、ジェリコ、エマウスを落とし、エルサレムは孤立した。そんな中、ネロの自殺の知らせが届き、69年7月には東部属州の軍団によって皇帝に擁立された。対ユダヤ戦争を長男のティトゥスに任せ、ウェスパシアヌスはエジプトのアレクサンドリアに向かったが、この間に味方のドナウ川方面軍はイタリアに侵攻し、第2回クレモナの戦いでウィテリウス軍を破りローマを占拠した。内乱は終結したが、ウェスパシアヌスはアレクサンドリアにとどまりエルサレムの陥落の報せを待った。70年9月26日にようやく占領し、対ユダヤ戦争はマサダの要塞を残すのみとなった。ローマに入ったウェスパシアヌスは、ティトゥスとともに凱旋式を盛大に行った。72年にはコンマゲネ王国を併合し、74年にはとうとうマサダ要塞を陥して対ユダヤ戦争を終了させた。これらの戦争により国庫が尽きて公衆便所の尿にまで税をかけたが、私欲に走ることなくローマに秩序と安定をもたらし、79年カンパニアに滞在中に69才で死んだ。完成はティトゥスの時代になるものの、フラウィウス円形闘技場(コロセウム)を残したことでも有名である。 |
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ティトゥス |
39年12月30日ローマで生まれた。父はウェスパシアヌス。母はフラウィア・ドミティラ1世。61〜63年にゲルマニアとブリタニアで軍団司令官、66年から第15軍団の司令官になり対ユダヤ戦争で父のもとで戦った。内乱で父がアレクサンドリアに移動するとユダヤ戦争を引き継ぎ、エルサレムを70年9月に掌握した。ウェスパシアヌスが皇帝になるとティトゥスは初めから後継者として扱われた。大将軍になり親衛隊長も兼ねた。父の政敵を次々と葬り去ったのもティトゥスだった。そのせいかローマ市民からは人気が無かった。79年6月24日に皇帝になると評判とは裏腹に善政を施した。8月24日のヴェスヴィオ山噴火の時、ポンペイとヘルクラネウムの街が壊滅したが、すぐにも救援物資を送り自らも2度現地を訪れた。ローマの災害の時も、ユピテル神殿の再建にすぐさま取り掛かった。しかし、彼の治世は短かった。81年の夏、避暑地サビーニ丘陵に向かう途中で高熱で倒れ、9月13日42才の若さで死んだ。彼の善政は伝説へと昇華した。 |
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ドミティアヌス |
51年10月24日ローマで生まれた。69年の内乱ではウィテリウス軍に包囲されたが脱出することに成功した。父ウェスパシアヌスが内乱を終結させてからは影が薄かったが、兄ティトゥスが重病に陥ると死ぬ前に親衛隊に皇帝と宣言させた。ダキア戦争やサルマティア戦争を行ったが勝利したとはいえなかった。それでも国境を守り抜くことはできた。治世の初期は善政をしこうと努めたが、皇帝暗殺未遂事件が何度かおきると、93年には恐怖政治に突入した。元老院議員、騎士、宮廷人だれかれかまわず処刑されていった。それは、親族にもおよび、周囲のものは暗殺しないと殺されると思うようになった。それは皇后ドミティアも例外ではなく、謀議に加担し、96年9月18日ローマの宮殿内でドミティアヌスはメッタ切りにされて殺された。 |
五賢帝以後は、工事中
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