ツタンカーメン

ツ タ ン カ ー メ ン


墓の内部図

   ツタンカーメンの死から約2世紀後、時のファラオ(王)ラムセス6世の墓が王家の谷に作られた。掘った石は、すでに忘れ去られていたツタンカーメンの墓の上に積み上げられた。
 1922年11月4日、ハワード・カーターとカーナヴォン卿は執念でこの墓を発見した。中には王のミイラとまばゆいばかりの黄金の数々が安置されていた。20世紀最大の発見の1つである。

 ツタンカーメンの父は、アメンホテプ4世と言われている。アメンホテプ4世は、多神教から唯一絶対神アトンを信仰する宗教改革を行ったファラオとして知られる。母は、キヤではないかと言われている。キヤは、ミタンニ王妃タドゥケパと同一人物で、アメンホテプ4世の治世のはじめ、両国の友好関係を保つため贈られた。
 キヤには謎がつきまとう。第1王妃には、ネフェルティティがいたが、彼女には王子が生まれなかった。キヤは、ツタンカーメンを出産したと同時ぐらいに、エジプト史から姿を消してしまう。ネフェルティティが陰謀を仕掛けたとも考えられる。王子の母親が権力を得ることは、後の歴史でも証明されている。キヤを恐れたということは十分に考えられるのではないだろうか。現に、アメンホテプ4世の死後、ネフェルティティの権勢が強まっている。では何故、ツタンカーメンには、何もしなかったのだろうか。王子が1人しかいなかったせいではないだろうか。女王の例もあるものの、男でなければ、国の存続自体にも係わってくる。周りには内外にたくさんの敵が存在していた。それに、幼ければ自分の思い通りに動かすことも可能だからである。
 ネフェルティティが死んだとき、ツタンカーメンはまだ5,6才であった。そのため、アイやホルエムヘプにほとんど実権を握られていた。腹違いの姉である、ネフェルティティの娘、アンケセンアメンと結婚し、アジアやヌビアに遠征しているが、成功したとは言えない。宗教的には、父の宗教改革から元のアメン信仰に戻している。

 B.C.1338年頃、突然ツタンカーメンは死んでしまう。19才ぐらいであった。アイが次のファラオになるので、ツタンカーメンはアイに殺害されたのではないだろうか。頭蓋骨には、打撲による損傷の後がある。ツタンカーメンが大きくなるにつれ、父の遺志をつごうともがいた結果ではないだろうか。事故死や病死にしても、結果的にアイが1番利益を受けた。そうなってくると、キヤの死にもアイが係わっていたかもしれない。また、アイはアンケセンアメンと結婚している。王家の血を欲したのではないだろうか。
 アイは、小さい自分の墓を作っていたが、そこにツタンカーメンを押し込み、ツタンカーメン用であった、大きい墓を自分のにした。アイの墓は、王家の谷の西谷にあるが、盗掘されている。一方、小さな墓の主は皮肉なことに、20世紀に日の目を見、誰もが知るエジプトの王になった。
 王の棺には、妻が贈ったのだろうか、ヤグルマ草などで出来た花束が置かれていた。

戻る