千住大橋と大亀
(第二話)

 


 千住大橋は、隅田川にかけられた最初の橋です。
この隅田川は以前荒川とも渡裸(トラ)川とも呼んでいました。
この川は、昔その文字の示すように、荒れる川であり、
トラ(虎に音が通じている)のように暴れる川でしたので、
その名がついたといわれています。 

 こうした川に橋をかけることは難事業ですが、当時土木工事の名人といわれた
伊奈備前守忠次によって完成されました。

 伊奈備前守忠次といえば、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めたおりに、
その先鋒をつとめた徳川家康の家臣で、富士川の渡河を成功させたり、
後年利根川、荒川の流路をつけかえた伊奈氏の初代で、
治水土木の大家として知られています。

 千住大橋の架橋につきましては、“武江年表”文禄三年の条に、
「……中流急湍にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて船を圧す。
船中の人水に漂う。伊奈氏熊野権現に祈りて成就すという。」
と書いてあります。

 この文章にあるように、川の流れが複雑で、しかも地盤に固い所があって、
橋杭を打ち込むのに苦労したようです。
そうしたことから、完成時には一部の橋脚と橋脚の間が特に広くなってしまいました。
実は、この一部橋脚が広くなったことにつきまして“大亀”の話があるのです。

 この川には、ずっと以前から、川の主といわれている大亀が棲んでいました。
そして、そのすみかが、架橋付近の川底にありましたので、
打ち込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。
いくら打ち込もうと力を入れても、橋杭はいっこうに入っていきません。そうこうしているうちに、
杭は川の流れに押し流されて倒れてしまいました。
そのあおりで、杭の付近の数そうの舟は転覆し、乗っていた人夫は
川の中へほうり出されてしまいました。

 そこで、その場所は避けて、岸辺に寄ったほうに杭を立てて打ち込みましたところ、
さほどの苦労もなく入っていきました。

 しかし、岸辺に寄せたぶんだけ橋脚の幅が広くなって、見た目にも不揃いに映りましたが、
しかたありませんでした。
大橋完成後も、この川を往き来する舟が、この橋の近くで転覆したり、
橋脚にぶつかるようなことがあると、このあたりの住民は、大川の主が舟の下に
もぐり込んでひっくりかえしたとか、橋脚にぶつけさせたと、言っていました。

 また、ときたま人が溺死でもすると、大亀様が怒ってそうしたのだと恐れておりました。
ですから、船頭仲間でも、大橋付近は危険な場所として、かなりの年季を入れた
船頭でさえ最大の注意をはらい、ここを通り越すとホッとしたそうです。
(速く不規則な流れが橋脚にぶつかって、より複雑な流れになっていたようです。)
大橋付近は船頭の登竜門、ここを無事に通り抜けられれば、
“一人前”のレッテルが貼られたともいわれています。

 その証拠に、当時の人々は架橋したあたりを、“亀のま”とか“亀のます”といって恐れていました。
明治に入って、この川の流れを橋の上から見た人は、「潮が上げ下げするときなどは、
橋脚のあたりで大きな渦を巻いておりました。
その渦もきっと“亀のま”の亀が川底で波をおこしているからでしょう。」ともらしていたそうです。

 千住大橋と大亀、科学が進んでいなかった時代には、何か事がおこると、
人々はいろいろと想像をめぐらして、こうした話が生まれたものと思いますが、
夢があって楽しいような気がします。

 ・岸辺に寄せた杭は、岸辺から数えて三番目で、三番目と四番目の杭の間を、
   “亀の間 ”と呼んでいたようです。

 ・洪水のとき、大橋が流されなかったのは、大亀が橋の下で水をかいていたからだ。
という話もあります。


戻る