草を舐めて水となる
「実に美しかったのでね。特種なプラスチック溶液を染み込ませて固めたのだ」
自慢げに彼は言うと手の中にあるソレをなで回す。
まるで愛撫するように。
目の前の男は残っている片目で彼の手の中のソレをひたすら見つめ続けていた。
大切なものが奪われ、蹂躙されている。
それなのにどうする事もできない。
傭兵訓練所の宿舎には十分な冷房設備がない。
地上三階・地下一階のコンクリート打ちっ放しの建造物は砂漠の乾いた気候には適しているが人間向きではない。
その西の端に『教官』の執務室がある。狭く、簡素を通り越して殺風景という表現があてはまる部屋。頑丈さだけが売りのスチールの本棚には兵器のファイルが並び、天板が傷だらけの執務机の前に椅子が数脚あるだけだ。
その椅子に『教官』の元生徒であるラルフ、そしてクラークと呼ばれる二人の男が腰掛けている。
本名ではない。
だが何度か同じ任務をこなし、生きて帰ってくる事ができれば名前はそれほど重要な物ではなくなる。
彼らに必要なのは敵か味方か識別するための簡単で短い音の組み合わせなのだ。
二人の向かい側に『教官』ことこの部屋の主であるハイデルンが座り、机の引き出しから先刻受け取った手紙を取り出す。封はまだ切られていない。
三通目。
机の上に置かれた同じような手紙が三通。三人それぞれあてに来たものだ。そして三人とも一年ほど前にもこの特徴のある封の施された手紙を目にしている。
中身も同様。
三人の視線が合い、無言のまま問う。
「どうするのか」と。
不気味な沈黙が部屋に満ちた。
乾いた空気を天井に取り付けられているファンがゆっくりとかき回す音を聞きながらハイデルンは無くした右目と左手…利き腕が疼くのを感じていた。
約十年前から事あるごとに襲ってくる鈍い痛み。堪えながらようやく口を開いた。
「これは正式な任務ではないからな。拒否しても構わない」
目の前の二人に怪訝そうな表情が広がる。
付け加えるように続ける。
「金にならない戦いはしないのが傭兵(プロ)だ。まだ時間はある。どうするかはお前たち自身で決めろ」と
とりあえず明日までには極めるようにすることを取り決めると二人は部屋を出て行く。
ハイデルンはくたびれたように目を閉じる。
暗く、重い、まるで原油のような暗闇の中にいた。
どこからかすすり泣きの声が聞こえてくる。嘆きの精霊バンシーのような声。泣いている女は伏せていた顔を上げる。まだ若い。
どこかで見た顔。
―クレア…?
九年前から決して成長する事がなくなった娘だ。だが今目の前にいるのは生きていたら丁度その分の年齢を重ねていたと思われる姿。
クレアは何も言わず、ただ悲しげにかぶりを振る。
やがて声を出さずに口を動かす。はっきりと読み取れるようにゆっくりと。
―ドウシてタスケてクレナカッタの?
心臓に冷水を浴びせられたような痛みが走る。
だが膝をついて許しを乞う事も出来ない。
やがて彼女は虚無を思わせる暗闇の中に浮かび上がって来たモニターの中に吸い込まれるように沈む。
近づくとモニターにはノイズをバックに文字が映されていた。
ABOUT 10 YEARS AGO.
まだ彼が別の名前で呼ばれていた頃
一瞬、迷うがモニターにそっと手を触れる。
どうなってるか軽く確かめるだけのつもりだったがそのまま中に手先から吸い込まれた。
「…ますよ…隊長?」
怪訝そうな表情で大量に設置されたモニターを見ていた通信士が振り返る。
心配そうに言う。
―そうだ、これはあの時の…。
「どうかしたのですか隊長?顔色が良くないですよ」
「レナン…?すまない、もう一度言ってくれ」
「民間人の避難機、最後のが出ます。我々も急いでマーカーを設置したら退却しないと空爆に巻き込まれ…」
みなまで聞かず、ハイデルンは臨時の指揮所を飛び出した。
壁にあったモニター…各隊員、そして市内各所に人数の少なさをカバーするために付けたCCVカメラ(小型カメラ)から送られてくる映像が映っている…にはアイドリング状態のヘリとそれに乗り込む民間人が映っていた。
―これがあの時なら…間に合ってくれ…!
指揮所のすぐ外に避難用ヘリの発着場が作られていた。
ヘリに最後の民間人が乗り込む。
一番後ろにいた彼女たち…クレアと妻のエレンは自分に気づくと軽く手を振る。
「ダメだ、それに乗っては…」
だがローターの空気を切り裂く音が響き渡り、声は届かない。
クレアの口が動く。
『先に行ってるよ、父さん』
エレンのたおやかな左手についている指輪が小さく反射する。
ヘリが浮上する。
周囲で民間人の誘導を行っていた隊員は一体隊長は何をやっているのか、と怪訝そうな顔で見ている。
次の瞬間、彼らの顔がこわばり、誰かが叫ぶ。
「伏せろ!」
反射的に身体が動く。
爆発音が上から響き、背中に何かの破片がバラバラと当たる。
目を開くとすぐ前に音を立てて振って来た物がある。
人間の、左手。
先刻自分に向けて振られた、良く見知っている手。
薬指には自分が送った指輪がはまったままだ。
一体何が起こったのか、分からない。哀しいのだが身体が、軍人として訓練された行動を半ば自動的に取る。
左手を大事に抱え、指揮所に戻る。
通信士のレナンが青ざめた顔でモニターを見つめている。首の角度が、歪んでいた。
「…レナン?」
彼は答えない。かわりに積み上げられたモニターの陰から銃が撃たれる。
至近距離で狭い指揮所だ。かわせない。
両膝と右肩に食らう。
撃った主がモニターの陰から出てくると立ち上がれなくなった自分に向かって言った。
「…あまりたいしたことないんだな。有名な第二特殊部隊も」
ひどくざらついた、冷たい声。
「何者だ…貴様がヘリを…」
「落としたさ。グレネード一発。その程度で落ちるとは見かけより華奢な軍用ヘリだ」
「なぜ」
「私はハンティングが好きなんだ。
特に強い人間、美しい人間を狩り、その血で手を染めるのが。そんな事を普通やったら犯罪でも戦場なら死人が出るのは当たり前だ。少しぐらいやってもばれないだろう?」
笑っていた。実に楽しげに。
それからふと倒れている自分に、視線を動かす。
「…きれいな手を持ってるな…」
自分がまだどうにか持っているエレンの手を奪おうとそいつは手を延ばす。
「っ触るな!」
奴の身体がずれた隙に、真後ろにある通信機に触れ、他の隊員に退却を指示しようとスイッチに左手が触れる。
だがスイッチか入った途端、自分の左手が消えた。通信機ごとだ。
火花が散る。そして血が、足元に小さな池になる。
硝煙をあげるショットガンを手にし、なおも笑いながら奴は言う。
「なかなかやるな。褒美といっては何だがこれから面白いものを見せてやろう」
その男はエレンの手を拾い、ポケットに収めると、通信機用のケーブルでハイデルンの出血している左腕を縛り付け、固定する。
皮肉な事に、これが血止めの代わりになった。
「特別に、これから君の仲間が私一人の手によって全滅していく様子を見せてあげよう。ここは特等席だ。カメラから送られて来る映像で全部見れる。存分に楽しみたまえ」
身体が震える。失血から来る寒気のせいだけではない。軍に入ってから決して感じないよう、抑圧するように訓練されてきた感情…恐怖だ。
自分を見下ろしながらその怪物は言う。
「だがあまり気持ちの良い見世物ではないな。さすがにつらいだろう」
次の瞬間、右目に激痛が走った。そして灼熱感。
残った左目に、奴の手に納まった自分の目が見える。
「じゃあ生きていたらまたな。隊長」
そう言い残して奴は指揮所を出て行く。
身体の痛みはどうにか耐えられる。だがそれからの出来事は拷問以上のものだった。
奴は相変わらず笑いながら仲間を、隊員を『狩って』いく。
それなのに自分は手だしは愚か、何が起こっているのか、そして奴が近づくのを教えることさえできない。
ただモニターを通じて送られて来る映像を見つめ続けるだけ。
気を失おうにも右目と、通信機ごと吹っ飛ばされた左手の痛みが意識を現実に引き戻し、狂気の世界に逃げる事もできない。
―ヤメテクレ…モウ ヤメテクレ…。
『もう終わりにしましょう』
エレンの声が響く。
いつの間にかはじめの暗闇に戻っていた。
目の前にはモニターがあり、映像が映っている。
身動きが出来ず、自らの血に沈み、周囲のモニターを見つめ続ける自分が。
傍らにはエレンがいた。
生きていた時の美しさはそのままだ。
だが左手が、奴に、ルガールに奪われた手首から先が無い。
それがあれからどうなり、どこに有るのか、一年前に見た。
ルガールの机の上。
プラスティネーションと呼ばれる標本製作技術。生前の様子をそのままにプラスチック溶液で肉体を固める方法。
奴はエレンの、楽器を嗜む者特有の優美な手にそれを施し、ペーパーウェイトにしていた。
ひどく悲しげにエレンが言う。
『もう悪い夢を見るのは終わりにしましょう…』と。
目が覚めた時には部屋はすっかり暗くなっていた。暑かった部屋の空気も冷えきっている。手探りでまだ回り続けていたファンを止め、暗がりに慣れた目を執務机に向ける。
例の招待状が乗っている。
あれだけの重傷を負わせたにも拘わらず、ルガールは生きている。自分と同じように。
「悪い夢を見るのはもう終わりにしなくては、な…」
敵を殺し、生き残る事ができる者に必要なのは強力な兵器や技術ではない。
もっと単純で、強烈なもの。
たとえ手足をもぎ取られようが咬み殺してでも相手を、敵を仕留めようとする意志の力。
正面玄関