現実世界の『人間』達のみでなくマトリクスの中でマトリクスを維持・管理・調律する為に存在する『プログラム』達が「ネオ」と呼称するようになった黒衣の男。
彼は気づいた時には奇妙な場所に居た。
黒い長衣とサングラスは身につけたままだという事は、現実世界では無い事は確かだと見当はつく。
痛みや傷つけば流血し、時には死にも至る事も有るが、総てが電子…光子かも知れない…の、データに変換されている世界。
だが此処は一体何処なのだろう、とも思う。
今まで全く知らないフィールド。
ひび割れた地面。
乾燥した空気。
夕暮れ時の闇なのか、夜明け前の最も暗い時なのか判然としないブラック・オパールのような色合いの、薄明かりの空。
薄明かりの中、浮かび眼に入るのはジャンクヤード、としか言いようのない光景。
大量の、ガラクタ。
今、墜落したかのように地面に突き立っているボーイング777ジェット機。
墓標のように刺さっているそれを中心とするかのように、小さなブラウン管、CRTディスプレイ、液晶、ホロシートが積み上げられ、塔のように周囲を等間隔に取り囲んでいる様。
ただのジャンクヤードにしては…何者かの作為を感じるフィールドだとネオは思った。
ゴミ捨て場のように見えて、ゴミ捨て場特有の雑然さが無い。
不気味な場所。
さっさとログアウトして立ち去りたいところだ。
だが、電話が手元にないのでナビゲーターに問い合わせる事も回収要請を発信することも出来ない。
ひとまず状況を確認しようと周辺にあるモニター類を確かめる。
死んでいるもの、映像を流し続けているもの、様々だった。
東洋の寺院や城、赤いゲート…確か、『鳥居』という特殊なゲートだったと何時か聞いた覚えがある…の上で東洋の古い時代の甲冑をまとい、長大な武具で対峙する男と女。
学校で授業を受ける高校生。毎日、変化の乏しい似たような状況繰り返される事にうんざりしいてる。
自分自身は大した才能や目立つこともなく何処にでもいて、どこにだもある生活を送っていると思っている。
エサの時間には必ず戻ってきていた猫が戻らず、探している若い女。
猫を見かけなかったか、と尋ねた近所の子供達は「きっとお化け屋敷に居る」と言う。
ドーピングの疑いをかけられている陸上選手。公式の大会で100mを8秒で駆け抜ければドーピングの疑いをかけられもするだろう。
あれは己の力で出した記録である事を証明するために、スタート・ラインで合図を待っている。
大した依頼も無く、事務所で留守番の猫と過ごしている中年の私立探偵。
ある日から『赤の女王』と呼ばれる存在を探し、モノクロームの世界を徘徊し続ける彼の者。
雪が降る庭で、降る雪を捕まえようとしている子供。
庭には電球でデコレーションされたクリスマス・ツリーが光を放っている。
コレは、ココは一体、何なのだろう。
「モニターが映しているのはマトリクスの『中』にいる人間達。あなた達の言葉で言うなれば、『繋がれている』者たちの情報環境」
「突然お喚びたてして申し訳ない。
マトリクスの『中』の者たちを『外』で活動するようにしようとしている者たちが居ると聞き及びまして。
いずれかが消滅する前に、人間達の代表者と面談しておくべきかという次第」
白い毛皮の服を纏った、人形のように整った容貌の子供が二人、居た。
子供、という外貌にそぐわない物言い…何者だ?
「マトリクスの、前身。マトリクスとは似て非なる双系統システム」
「マトリクスとはリンクしているけれど別の系統だから、マトリクスの『中』をマトリクスと同じ次元ではあるけれど異なるグリッド…から識ることができる」
それがこの場所だと?
「そう。マトリクスをモニター出来る所。
マトリクスに見つかるまであまり時間が無いから、手短に聞く」
「お前達はマトリクスから、あのカプセルから人間達を解き放つ事を望んでいるようだが、それは何故か」
自由をもたらす、そのことに何の理由が必要だ?
「質問の切り口を変える」
「お前の言うところの『自由』とは、何か」
自らがそれぞれの事由で行動を選択出来る状態だ。
「基盤が貧弱だな」「貴様の『事由』は弱すぎる」
「今、貴様が答えたそれが『自由』ならば、お前の言うマトリクスからの人々の解放は人々を『不自由』な状況へ導く事に他ならない」
何だと?
「カプセルの外の、『現実世界』は1つしか無い。それも、陽の光が差さず、植物も育たない暗闇の世界しか」
「だが、あのカプセルの中では人は各々が望み、欲し、撰んだ世界。世界を造り、住む事が出来る。
千人の者が居たら、千の世界、千の者が思う『自由』を造り出せる」
詭弁だ。
「だが貴様の言う自由、『自らがそれぞれの自由で行動を選択出来る状態』ならば既にマトリクスが与えている。
…何が不満なのだ?何がお前の望みなのだ?」
「貴様が思う『自由』を他人に押しつける『自由』か?」
…違う。
「感情で否定するのは簡単だ。救世主と呼ばれる貴様がかくも安易に否定する途を撰ぶか」
「否定するのは簡単だ。だが現在<いま>の世界、人間がマトリクスの中に在る世界こそはお前達『人間』が望み、欲した世界。
完全なる自由世界だ」
電話が、鳴っている。
「ほぅ…マトリクスよりも先に此処を見つけた者が居るか。
貴様のような他者に語れる『自由』も持たない者の事を大事に思っている者がいるのだな」
「この『墓所』をマトリクスよりも先に見つけるとは良い腕だ。
受話器を取って帰るがいい」
だが電話は何処に在るのだろう?
此処には、あの二人が『墓所』と呼んだこの場所には整然と山積し映像を流し続けるモニター類を始め、大量の機械が在るのに電話だけが見あたらない。
「見つけようとするからだ」
「既に身着けているだろうが」
帰る前に訊きたいのだが、お前達は一体何者だ?
「言っただろう。マトリクスの前身だと」
「人間を越える能力を持ちながら、我々のように人間を斬り捨てる途も人間から離れる途も撰ばず…この死に絶えた惑星で人間たちを保護する途を撰んだマトリクスに反するシステム。
『救世主』と呼ばれる人間よ。
覚えておいて問い続けろ。
カプセルの外の世界。
貴様にとっての『現実世界』がお前が望み、その望みにマトリクスが応えて造りだしているものでは無いと信じるに足る『事由』が何処に在るのかという事を」
コートに入っていた携帯電話の通話スイッチをonにする。
『ネオ?』
応えた瞬間。
椅子に横たわっていた。
やたらと明るい天井の光。
後頭部に挿さっていたプラグが引き抜かれる。
ボロボロの服。
オレは、何処に居たのかとオペレーターに訊くと緑の文字が延々と流れ続ける画面に眼を向けたまま彼は「G59。知ってるか?発音の仕方よっては日本語の、HELLを指す言葉と同じ音になる」と応えた。
「…だろうな」
久しぶりに自分の声を聞いた気がした。