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37=37
37→1.37









千人の苦しみは一人の苦しみより大きいですか?

1kuの赤い平面は1uの平面よりも赤いですか?

小鳥の飼い主はカゴの小鳥よりも幸せですか?







 ラボの実験室と観察者を隔てるガラス窓が赤く染まった。
 べったりと付着した大量の血液。

『・・・同調率65%・接続失敗。精神接触の被験者(ドナー)・心拍・血圧・脳波フラット。バイタル消失。レシピエントへの接続実験、次のドナーへシフト・実験を続行します・・・』

 平坦な声がスピーカーから流れる。
 透過率の変化を感知したセンサーが自動的に窓を洗浄する。

「・・・不思議そうな顔をしているわね」

 窓の向こうを見下ろしたまま、カレンは言った。最初、ヒュウガにはその言葉が自分に向けられたモノだとは思えなかった。
 カレンの視線の先。
 実験室の、診察台の上に固定されている『レシピエント』に対しての言葉だと思った。誰か別の者に対しての言葉ともヒュウガは思ったが、薄明るい照明の観察室にいるのは彼女と自分だけ。
 スピーカーからは実験室の音声が中継されてくる。静かな観察室の中に拡がる音。

『ドナー』の声。意味を成さない呟き、恍惚の嬌声。喚声。
『レシピエント』の悲鳴、嗚咽、哀願の声。

 診察台の周囲には『もとはヒトだったモノ』が散乱している。
 あるいは負荷に堪えきれず、脳が『灼けて』しまった者が累々と横たわっている。
 次は自分がああなるのかも知れない、と恐怖し、あるいは諦めているドナー達。

 なぜ自分がこのような・・・奇妙な機械に理由も教えられず縛り付けられ、目の前では次々とヒトが壊れて行くのを見せられているのか、理不尽な状況に恐怖するレシピエント。

 そしてこれらの様子を顔色一つ変えず、ガラス越しに見つめ続けているカレン。

 恐らく・・・ヒュウガの主人であり、保護者であり、監督者であり、実質的にソラリスを支配している『彼』も見ているだろう。



 この奇妙な・・・実験を。



「・・・レシピエント・・・フェイは理解できない恐怖と今の状況に置かれた原因も分からず、教えられず、恐怖から不思議そうな顔をしているけど・・・あなたのその表情は・・・好奇心かしら?」
 彼女は実験室を見ると同時に、血で曇ったガラスに映っている背後の様子も目にしている。ガラスの上で視線が、合った。
 質問にヒュウガは応えない。
 スピーカーは無機質に実験室の『音』を中継し続けている。

 オカアサン、ボクハドウシテドウシテコンナヒドイヤメテ、ボクノナカニハイッテコナイデ、アアアアアア、シンデシ、キエテ、コワレテ、ボクノ、ボクノセイナノ?ボクガワルイコデ、ダカラボクハコンナヒドイメニアッテヒドイコトヲコノヒトタチニシテイルノ?タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、オネガイ、ヤメテ、ヤメサセテ、オカアサン、オカアサン・・・

 悲鳴と啜り泣き。か細い、わずかに甘えの混じった声での哀願。

「・・・貴女は、診察台の上にいる子供の『母親』ではないのですか?」
 一瞬、呆れたような表情が。
 不躾ともいえる質問に対し、静かな、優しげともいえる笑顔を浮かべて。
「そうよ」と。
 教師が出来の良い生徒を諭し、議論を楽しむようにカレンは応じる。
「血の繋がりの上ではね。あなたは『母親』を何だと思っているの?」

 子供の女親。無償の保護と愛情を子供に対して与える者。
 そう回答すると、カレンは艶やかな声で言った。

「模範解答。でも半分ね」
「半分?」
「あなたの回答は『抱きとめ、受け容れる者』としての母親ね。その『母親』は”エリィ”の役目なの。
 私の、”ミァン”の役割はもう一方の『母親』よ」
「もう一方・・・」
「『母親』には二つの面が有るのよ。表裏一体の、コインのようなものだけど・・・抱きとめ、受け入れ、無償のそして絶対的な愛情を与える面と・・・抱きとめてそのまま」
 唐突に言葉を切り、声に出さず、唇の動きだけでカレンは続けた。


 『抱き絞め、殺す』と。


「柔らかく、やさしく、ゆっくりと、ね」
 カレンが付け加える。相変わらず、視線はガラスの向こうの診察台に固定したまま。ガラスが再び赤く染まった。
「ヒュウガ・・・と言ったかしら?あなた、どうしてここに居るの?」
 先刻から彫像か何かのように、気配もなくカレンの後ろに控えているヒュウガに彼女は背中を向けたまま問う。

「・・・カレルレン閣下に、貴女を『長くかかるだろう。それを待つ間、退屈しないようもてなすように』と」
「退屈、ね・・・」

 苦笑いが、ガラスに浮かんだように見えた。
 カレンは椅子を、座り直して彼と向き合う。

「どんな『もてなし』をしてくれるのかしら?」

 楽しげな、笑いの混じった声。左手が差し出される。
 簡素な、飾り石のない指輪が目に入った。細く、形の良い指。指先が荒れているのは日々の家事のためか。ソラリス人の女性とは違う、良く働き、使われた手。


 何かをしてみなさい。


 そう言いたげに、差し出された手。
「触れても、いいですか?」
 彼女は柔らかな笑みを湛えたまま。
 柔らかな沈黙を了承と受け取り、ヒュウガは壊れ物に触れるようにそっと彼女の手に触れる。
 柔らかく、優しく、そして冷たい手。
 指の付け根に、唇で触れる。
 やはり、冷たい。

「・・・この手で、どんなふうにあの子供・・・フェイを抱きとめるのですか?」
「好奇心旺盛ね。でも・・・」

 されるがままだったカレンの指が動くと、ヒュウガの唇を割って侵入してきた。
 抵抗はしない。

「好奇心は猫を殺す、とも言うわ」
 カレンの指が、歯列をなぞる。
「教えてあげてもいいけれど・・・」
 歯列を割って入った人差し指が上顎に触れてくる。どうしようか、といったように口腔内を彷徨う指に、ゆっくりと舌が絡まる。
 唇の端から溢れた唾液が零れ、顎を伝い、首筋を濡らす。

「匂いはうつさないでね・・・もっとも」
 指が、引き抜かれる。唾液で濡れ光る指輪を見、酸素を求めて喘ぐヒュウガを見る。笑いを含んだ声で彼女は言葉を続けた。
「夫に見つかるような、匂いをうつすまでの時間、あなたがもつとは思えないけど?」

 柔らかな笑み。
 だが、カレンの眼。
 顔に浮かんだ笑みとは裏腹に、手指よりも冷たく、嘲いを含んでいる。
 赤く染まったガラス窓は血脂でぬめるのか、洗浄が追いつかなくなっていた。微かに赤色を帯びた光が部屋を満たす。



 実験はまだ終わりそうにない。



 血、肉、先刻まで『生きて』居たモノの欠片が水で洗い清められ、床の排水口に流れて込んで行く。
 初日だから今日はこれくらいにしておく、と観察室に入ってきたこの研究所の主は告げた。床に力無く横たわっているヒュウガを一瞥する。規則的に上下する胸。深い眠り。
 清められていく実験室の様子を眺めていたカレンが問う。


「・・・フェイは?」
「風呂に入れている。
 ここに来る前と同じように、元通りにしなくては駄目だろう」
 外見だけでも、とまでは口には出さない。
「そう」
 髪を軽く手で調えるとカレンは椅子から出口に向かう。

「何処へ?」
「フェイのところよ。それと・・・」
「?」
「カレルレン、あなた一体どんな躾けをヒュウガにしてるの?」

「普通のソラリス人がラムズにするように、皮膚が破れ血が流れる寸前まで笞で打ち、鎖で不自然な姿勢で拘束して放置し、薬物を投与して、躯のあらゆる腔に異物を挿入し、手首を縫い付けて犯して言うことをきかせるのは簡単過ぎて面白くないからな・・・どうかしたのか」

 呆れた、とでも言いたげに小さなため息をカレンは漏らした。

「必要なルールは守らせている」
 カレルレンの寝室に立ち入らない事。
 研究所と隣接するソイレントシステムの中を歩き回るのは自由だが、許可無く『外』へ出ない事。
 そうと分からないように監視も付けているが、ヒュウガ自身も監視には気付いている。
 扱いは客分に近くとも、研究所の『被験者』の一人である、ということにも。
 駕籠の中の鳥。しかし、駕籠の中でなくては『生きられない』ということを既に知っている鳥。
「貴重な、こちらの手の内にある同調者で、しかも若い」

「だったら尚更のことよ。
 同調したあの機体・・・前回の『接触者』出現時はあなたが使っていたあの機体を早々に渡してしまいなさい。ソラリス、地上、どこでも動き易いようにして。

 今度はこの子があの時の、あなたの役目を負ってフェイに付くのだから」

「ヒュウガのことが気に入ったのか?」
「・・・飲み込みが早いところ、好奇心旺盛で勉強熱心なところ、キスが巧いところは、ね」
「・・・」
「頭も悪くないわ」

「なら、何処が気に入らない?」
「研究所の『製品テスト』としてユーゲントの入学試験を受験させるかどうかはともかく、いずれ外に出すつもりなら『笑い方』くらい教えておきなさい。それと、眼に感情が出すぎるわ。眼鏡でもつけて多少は誤魔化すようにするのね」

「善処しよう」


 まるで、床に横たわったままのヒュウガが人語を解さないと思っているような会話。
 後で観察室の汚れた床を掃除するように指示を出して二人は部屋を出て行く。




■ 正面玄関