maximum entropy
「この本を持っていてくれ」と。その本を手渡された時は、冬の冷たい雨が降っていた。
僕は黄色く塗られたスクールバスから降りて傘をさして家に向かって歩いていた。
郊外の住宅地だ。それに冬の夕方で雨降り。
明かりらしい明かりは家屋から漏れてくる明かりだけで、とポツポツと建っている街灯だけ。人通りは殆ど無かった。吐く息が白いのが見えて、早く家に帰りたかった。
だけど。
ドッ
何か、重いモノが落ちる音がうしろから聞こえて振り返ると、人が倒れていた。おそるおそる近づいても仰向けに倒れたまま動かない。
中年の、やせ気味な男だった。
おかしなことに、彼が着ているのはどう見ても夏服。それに、奇妙なモノを手にしていた。縄跳び用のロープに似ているけれど、スティックがやけに長く、縄跳びと違ってスティックを繋いでいるのはロープではなく細い鎖。肩の辺りに、彼のモノらしいナップザックが落ちている。「…おじさん…大丈夫?」
雨で濡れ始めている彼の服が少しでも濡れないように、傘を差しかけて訊くと彼は薄く笑いながら言った。「…大丈夫かって訊かれたら、大丈夫だって答えるしかないなぁ…。
坊や、今日は何年の何月で…ここが何処か教えてくれないか?」
「僕は坊やじゃない。
フレデリックっていう名前がある」仰向けに倒れていた彼の目が、驚いたように見開かれる。
街灯の明かりでも判る、明るい空色の眼。
「すまん…」「でもおじさん、変な人だね。
ドラマとかだったらさ、倒れている人に向かって近くに居た人なんかが『しっかりしろ、今が何月何日か言ってみろ』って言うのにさ。これじゃ逆だよ。
それに、今は冬だっていうのにそんなカッコだと風邪ひくよ。海外旅行でもしてたの?」
「旅行…ま、そんなモノか、な。
いろんな所に行き過ぎて、今、自分が何処にいるのか判らなくなるんだ…」ゆっくりと、額を手で押さえたまま彼は上半身だけ起こした。
ナップザックを引き寄せ、縁石に座る。「ふーん、大変だね。
ホントに大丈夫?僕の家、近いから雨が止むまで休んで行かない?」「知らない人を家に上げるなって、親に教えられてないのかフレデリック君は」
「『ヒトは見かけによらない』『大変なメにあっているヒトは助ける事』って母さんが言ってた」
「いい母さんだな」
「うん。でも母さんって呼ぶと怒るんだ。『いい名前があたしには付いているんだから、ちゃんと名前で呼びなさい』って僕の頭をはたくんだよ」
「そうか。フレデリック君といい、君の母さんといい、そんなイイ人の居る家にはなおさら、俺は入れないな」「どうして」
「悪人だから」
「…え?」
確かに、彼は言った。「悪人だから」と。でも自分から悪人という人間なんて、居るだろうか?
笑顔で吐かれた「悪人」と言う言葉。
彼の、子供用の傘から、溢れた身体がズブ濡れになっている。「おじさん、やっぱり大丈夫じゃないよ…」
「いや、もう大丈夫だ。傘を、ありがとう。おかげでだいぶ濡れずに済んだ…」
起きた時よりは素早いけれど、やっぱりゆっくりと立ち上がり、中腰になると彼は手にしていたナップザックを傘の下で開けた。
中から一冊の本を取り出す。「親切にしてくれて、ありがとうフレデリック。
何か礼をしたいところなんだが、あいにくこれしか無くてな…
この本を持っていてくれ」
「でも…」彼から手渡されたのは赤い、革の装丁が施された子供の手には余る分厚い本。
母が勤めている図書館で本を見慣れていた事もあって、その本が『高価なモノ』らしいのは直感で判った。
パラパラとめくって見たページには文字と数式、記号の列。
受け取ってはいけない。
彼に、返さないといけない。
そう思った。
だから
「こんな文字と数式ばかりの本、僕には読めない…」「そう、今はまだ読めないかもしれない。
だが、君はいずれ自分でその本を『読む』べきた。君にはそれを読み、解く事が出来る。
…読めるはずなんだ」
背の高い彼は身体をかがめて僕と目線を合わせて話していた。酷く真剣な空色の目。濡れているのは、雨のせいなのか…暗くて判らない。
ただ、両肩に置かれた彼の手が、重かった。