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negative entropy







「…遅い」

 テーブルの上には二人分のクッキーとホットミルク。

 時間に合わせて用意してある。
 いつもなら、とっくにフレデリックが帰ってきている時間。


 窓から外を見やる。

 冬が近いせいもあって、まだ午後3時を回ったところなのに外は薄暗く、街灯が既に灯っている。

 それに雨。

 おおかた、途中で濡れた犬でも見つけて雨宿りさせているのだと思う。

 父親に似てあの子は動物によく、そしてすぐに懐かれる。
 そして雨の中で濡れている動物を放っておくことが出来ない。


 外見が似なかった分なのか、性格が父親によく似た子供。


 窓ガラスに当てた指の周りが白く曇っていく。外は寒いのだ。

 丁度、あの子の父親が居なくなった時もこんな寒い冬に近い秋の夕暮れで…場所はここから遙かに遠い海を隔てた地だったけれど。
 奇妙な、不安が私の中に拡がってくる。


 居たたまれなくて、レインコートを着る。玄関に立てかけてある傘を…私のさす分と、何となくもう一本大人用の傘を手に取って、ドアを開ける。

 
 もう少しすれば霙になりそうな、冷たい雨と空気。


 どうか、あの子が消えて居なくなったりしませんように。

 何故か、祈らずに居られない。
 でも、何に祈ればいいのだろう?

 
 あの子の父親が居なくなった時、警察に捜索願を出しても書類に書き込んだ名前を一瞥した警官は
「大方、組織の抗争でヤられたのだろう」と取り合ってくれなかった。

 いつも、何処かに怪我をしていた。

 私はいつも気まぐれな野良猫のように時々、転がり込んでくる彼の手当をしていた。

「バカだって、思うだろうけどさ、本当は誰も殺したく無いし怪我、させたくない…痛いから。

 でも誰かが手を汚さないと…もっと痛い思いをするヒトたちが居るから」

 誰が?
 誰が、彼以上に怪我を負い、痛い思いをするというのだろう?

「逃げられない、逃げる力や場所の無い子供や…めぐみみたいにイイ人。

 イイ人たちが痛い目に遭うの、黙って見てるくらいなら俺が痛い目に遭ってもいいから何とかして置きたくてさ…」
 ちがう、私はそんなイイ人じゃない。

「俺みたいな端から見たらまっとうじゃない人間でも怪我、してたら手当するっしょ?

 それってスゴイよ」

 スゴイのは、彼の方なのに。

 人を守るために、只の人間で居る事を止めて手を汚し怪我を負う彼が。

 たとえ、警察が彼を組織の者と同類とし、彼の行動を『悪意有る行為』とみなしても…自分の意志で撰んだやった方がマシだと思うことをする。

 何か事情があったにしろ、突然きれいサッパリと消えた彼。丁度、こんな雨降りの夕方だったから。


 彼のように、あの子が、フレッドが消えていたりしませんように。

 願わずにいられない。

 スクールバスの停留所に向かって歩いていくと、見覚えの有る傘が目に入って来た。
 丁度、通りを挟んで1ブロック向こうに「暗くても目立つように」と持たせた黄色の小さい傘が。

 すぐ側に、何か…暗くてはっきりと見えないけれど、人が居る。
「フレーッド!」

 私の声に気づいて、通りの向こう側の傘が動く。

 側にいた誰か…背の高い者…が動く。
 車が、通りを走っていく。

 通り過ぎるのを待って、通りを渡りフレッドの所に行くと其処にいるのは赤い本を手にしたフレッドだけ。

「誰か居たの?」

「うん、倒れてたおじさん。

 濡れてて動けなかったみたいだから、傘さしてたらこの本くれたの。傘のお礼だって」

「…そう…」
「あ、あとおじさんが言ってた。

『めぐみさんに、幸せに』って」
「…え?」

「大丈夫そうじゃないから、家に来て休んだらって僕が言ったのに『大丈夫だから』って。

 それに、自分みたいな悪人は僕やめぐみみたいなイイ人の家には入れないって…自分から悪人だっておじさんは言ってた。変な人だよね」
「そうね…でもそんな人も居るのよ。時々、ね…」

 彼のように。
 フレッドの手を塞いでいる、学校の図書館から借りてきたのか厚い本を受け取り小脇に抱える。

 空いたフレッド手を繋いで、家に向かって歩く。
 だいぶ外にいる時間が長かったのか、冷え切った手を。

「でも本当に変なおじさんだったよ。夏の服、着てたし。
 この本、くれた時にこの本は僕が読む本だって言ってさ。すっごく難しそうな本なのに。どうせだったら、おじさんが持ってた変なナワトビの使い方、教えて欲しかったな」

「…?変な、ナワトビって…?」
「ロープじゃなくて、鎖のヤツ」

 …まさか。
 立ち止まった
「めぐみ、どうかしたの?おじさんのこと、知ってるの?」

「そのおじさんの名前、訊いた?」
「ううん。
空色の目の、おじさんだったけど…めぐみ、泣いてるの?」

「泣いてなんかいない、よ…この傘、雨漏りしてて…何でも無いの、大丈夫、ホントに」

 黙った私に合わせてか、フレッドも無言のまま手を繋いで家に向かう。

 家に帰って、フレッドが眠った頃を見計らって、貰ったという本を開いてみる。

 赤い、丁寧に革の装丁が施された本。
 著者の名前、発行年月日が書いてあるはずのページは破り取られていた。題名も無い。

 中身は化学式なのか、数理なのか…延々とページを埋める、数式と記号の列。
 分子構造らしい、点と線と記号で描かれた図。

 
 それだけだった。

 フレッドが会ったという「自分で自分の事を悪人という変なおじさん」が彼なのか、どうか。

 本当のところは判らない。けれど、私は願わずにいられない。そして望む。

 どうか。

 彼が痛い目に遭っていないように。

 怪我をしていないように。
「…ヒトの好意くらい、素直に受けなさいよね…」


 望みながら。

 私は題名の無い本を、フレデリックが何時でも取り出せる高さの棚に納めた。