schroedinger
振り返らず雨の中を延々と歩き続けて、いつの間にか明るい街中にたどり着いていた。
ウィンドウに並ぶテレビ、ビルの壁面のモニターを流れる映像、アナウンス。文字。
「…予測では100年後には地球気温は平均6℃上昇、海面は80cmの…」「アフリカ南東部で洪水が発生し…」
「レッドデータに新たに128種の動植物が追加、28種に絶滅の確認が…」
「病原生物の生息地域の拡大とスポット発生についての警報がCDCに…」デモの群衆。
火炎瓶を投げつけた子供に催涙弾を撃ち込む装甲車の映像。
橋の上から河に投げ込まれた男に銃を撃ち込む者。「今回の46%の減税で恩恵を受けるのはごく少数、全国民の1%の金持ちだけです。繰り返します、恩恵を受けるのは1%の金持ちだけ…」議会の様子。
「美しい地球を守るために」というテロップと共に流れる環境保護の公共広告。デジタル映像。
あの少年は、フレデリックはどうするのだろう。
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もう数えるのも面倒なくらい、慣れたし「…そろそろクるな…」と判るようにもなったけれど。
相変わらず『時間跳躍』は予想もしていなかった時に突然起こる。
今回は背中からモロに落ちた。受け身を取る間も無く、コンクリートに叩きつけられる背中。
落ちて仰向けのまま見上げた空は夕方なのか、暗い。
肌寒い。そして雨が降っている。冷たく濡れたコンクリートがどんどん体温を奪っていくのが判ったけれど、起きて動けるようになるまで、眼を閉じて呼吸を整える。
手には獲物が在るのは判っていた。そして傍らに必要最小限のモノが詰めてあるナップザック。
雨が、顔に当たっている。
降りそそぐ雨が、遮られた。
「…おじさん…大丈夫?」おそるおそる、という感情の籠もっている子供の声が上から降ってくる。英語だった。眼を閉じたまま、答えた。
「…大丈夫かって訊かれたら、大丈夫だって答えるしかないなぁ…。坊や、今日は何年の何月で…ここが何処か教えてくれないか?」
「僕は坊やじゃない。
フレデリックっていう名前がある」まさか、と思った。
どうか、『あの』フレデリックで在って欲しいという期待。どうか別の、同名の別人で在って欲しいという恐れ。
目に映ったのは、街灯の明かりを背にしたダーク・ブラウンの髪と心配そうに覗き込んでくる赤みがかった褐色の眼の子供。
『その時』に来てしまった、と。判った。
最初に『跳躍』してから、数年分ぐらいのうちはどうにか元の時代に戻ろうとした。帰りたかった。だけど、自分の意に関係無く突然起こる『跳躍』。
跳ばされて行き着くのは必ず最初に跳ばされた時点を原点にすると『未来』の世界。『原点』から近い未来の時も有れば、遠い未来の事も有った。
酒を飲んでいた矢先、『跳躍』で更に未来へ跳ばされ俺にとってはつい先刻まで隣で酒を呑み交わしていた者が死ぬのを看取った事も有る。
様々な未来を、眼にした。
破壊されつくされた都市。『魔法』としか呼びようの無い技術の恩恵で復活した人々。
通常火器の効かない、人に似た形をした兵器が命令されるまま、あるいは欲望のまま都市を灼き、跋扈する時代。
様々な距離の未来を行き来する間。
元の時代に戻る手掛かりを持つと様々な未来で言われ続けたthe MAN…『あの男』とはいつもすれ違いだった。そして跳んだ先で聴かされる『あの男』の姿は遠い未来では青年であったり、近い未来では老人だと言われる。
てんでバラバラな情報。バラバラな『あの男』の姿形。バラバラに、それでも確実に集まり蓄積されていく『あの男』の情報。
『跳躍』する分、年月が重なり年老いていく俺の身体。自分の意志では止められない『跳躍』。
「俺がこんな事になったのは、きっと何かの意味が有るはずだ。元の時代には戻れないなら、自分で何とかするしか無い」と。
諦めて『魔法』の基礎理論が書かれた赤い革の装丁が施された本を、最初に跳んだ時点から数えると200年ほど未来の警察から借りた矢先。
跳ばされた時点。目の前で、心配そうに覗き込み、傘を差しかけてくる少年。
総ての、断片が揃った。
theMANと呼ばれ、200年くらいの間の未来に時々現れる『あの男』。彼を追うようになる者。
目の前で、俺を気遣ってくれている少年の未来を俺は知っている。theMANの正体も。
今が、『その時』。
俺がtheMANになる(かもしれない)時。あるいは、俺が見てきた『未来』を変える事が出来る(かもしれない)時。
『その時』なのだと、判っている。判ってしまっている。
フレデリック、と名乗る少年と話しながらも迷っていた。ナップザックの中のモノ…本を、渡すべきか。
手にしている獲物で、まだ只の人間の子供のフレデリックを時間の流れの中から抹消するか。
とりとめの無い会話。
「…悪人だから」「え?」
怪訝な、なぜそんなことを言うのかという表情。「おじさん、やっぱり大丈夫じゃないよ…」
素直で、真っ直ぐな眼。俺にとっては以前。
フレデリックにとっては未来の、違う名前を名乗るフレデリックと変わらない真っ直ぐな眼。違う名前で、人で在ることをやめた彼の眼。常に浮かんでいた昏い色は此処にいるフレデリックには無い。
ひょっとしたら。この『フレデリック』なら。
「…親切にしてくれて、ありがとな、フレデリック。何か礼をしたいところなんだが、あいにくこれしか無くてな…
この本を持っていてくれ」
今の時点から200年ほど未来の警察の資料室から借りた、俺には片手で持てる本を。フレデリックの両手に持たせていた。
「…でも…こんな文字と数式ばかりの本、僕には読めない…」「そう、今はまだ読めないかもしれない。
だが、フレデリック、君はいずれ自分でその本を『読む』べきた。君にはそれを読み、解く事が出来る。
…読めるはずなんだ」
手にした本が重さに対する戸惑いでか。
差しかけられていた傘が傾いで、冷たい水が顔に掛かった。
「フレーッド」
通りの向こう側から、女の声がした。聞き覚えの有る声。
視線を上げて見遣った先には傘をさしたまま手を振っている女が居た。「母さんだ」
ぱっと顔を上げて、フレデリックが言う。暗くて、顔がはっきり見えないが…俺にとっては、何十年ぶりかに聴く声。それでも違えようが無い。
「そうか…だから日本人を専滅させたがったのか…」「…おじさん、何か言った?」
「いや、何でもないんだ…
母さんに、めぐみさんに幸せにって」「おじさん、めぐみを知ってるの!?」
遙かに低い身長のフレデリックの頭をひとなでして半ば逃げるように俺は通りを渡った。早足で歩き続けた。
振り返らずに。
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もう真夜中だというのに広告やニュースが流れるモニターと看板で街中は明るいままだ。
放送局の前で爆発、炎上する自動車。「9kgの爆薬を搭載、『real IRA』が犯行声明を…」と興奮した口調で話すキャスター。
化粧品のCM。着飾った、美しい女。
「捕りすぎたのさ。
人間の漁獲技術は探知機やら船の大型化で進歩する一方だが、タラの回遊コースは変われない。オマケにここらの水温も温暖化で上がってタラが繁殖しにくくなった。
皮肉なもんだ。子供たちに漁業を続けさせたいなら、俺達は漁業をヤメなきゃならん。どうやって喰っていけと?」
別の画面に視線を移す。音声に合わせて字幕が同時に現れる画面で語る、仕立ての良いスーツを着た政治家らしい男。
「速度、そして変化。
変化の速度、流れの加速化を怖れてはなりません。それは怖れるモノではなく、興奮する、楽しいモノなのです」別の画面では電力不足のため、州内の時差別に順次停電を行うという行政広告。
「…予測では100年後には人間の活動による急激な温暖化のため、地球気温は平均6℃上昇、海面は80cmの…」
このまま何の対策も講じず、放っておいたら100年…早ければ数十年のうちに悪意は無いが自分では何もしようとしなかった人間たちの意志と行為で、平衡状態に陥り地球の波と風は止まるという警告。Maximum entropyに至る世界。
フレデリックが、彼に渡したあの本を読み解ければ…用いられた時はまるで『魔法』としか呼びようの無い技術の基礎理論を読み解ければ間に合う。波と風は止まらない。波と風に乗って巡る、生命の循環は止まらない。だが、読み解いた後、『魔法』が使われてしまった先の未来は?
どうか。
今はまだ少年の、フレデリックが本を読んでしまった後も彼が人で在り続けてくれるように。人に似た形をした、あの兵器たちを作るコトを、人人が彼に望まないように。
人人を守るために、彼が人で在ることを止めないように。
万一、彼が人で無くなった時。人の形をした、別のモノになってしまった時。そして彼にとっては未来で、今、此処に居る俺の躯にとっては過去の時点で遭った時。
「…ダンナ、まだ若くてこの時点に本を持ち込む前の俺を、『theMAN』になる前の俺を時間の流れから抹消してくれるかなぁ…」
ビルの谷底から見上げた夜空は塗りつぶされたキャンパスのような、星の無い暗闇。冷たい雨が、相変わらず降っていた。