Rabies
手が冷たい。だが心はもっと冷えきっている。
先刻から降っていた雪がうっすらと積もっているため、普段は闇に包まれる森の中は月がなくてもかなり明るかった。
明かりの中に足跡が一人分、続いている。
足跡を付けたのは男、それもまだ割りと若い。
手には黒い鞄が下げられている。中にはメスや鉗子、ピンセットや注射といった冷たい金属とガラスでできた医療器具が入っている。
彼は森の深いここいらでは数少ない医者だった。
往診からの帰り道だった。
シン、と静まり返った森の中に雪を踏み締める音と時たま樹上から積もった雪が降るサーッという音だけが響く。
ソレは音を立てなかった。
ただひたすら、じっと彼が来るのを待ち続けていた。
彼が通るとソレは彼であることを確かめ、行動に出た。
鋭い風切り音がした時、彼は不審に思った。
手にしていた鞄が急に軽くなったのだ。掴みの部分が切断され、本体の部分が落ちる。
次の瞬間、中身がこぼれ、足元でガラスと金属が触れ合う澄んだ音が響き、音はすぐさま雪に吸い取られた。
「くそっ…」
大切な商売道具を拾い集めようと身をかがめると、視線の先に入れた覚えの無いナイフが目に入った。決して自分の物ではない。
「……?」
だが、見覚えはある。手にとってよく見よう、としたそのとき。
「そのまま動くな」
低く、はっきりとソレは言った。
彼は指示に従う。
「質問に答えろ…どうしてマナを殺した?」
相手は声だけで姿は見えなかった。だが彼は声とナイフの主に思い当たり、全身の血が引いた。
声は繰り返す。
「どうしてマナを殺した?」
その時のことは彼自身、よく覚えていた。
秋も終わりに近い、穏やかな太陽の光が正面のステンドグラスを透過して差し込んでいた。
おせじにも座り心地が良いとは言えない教会のベンチに座っている人々は祭壇の前に畏まった二人に視線を注いでいる。
結婚式が執り行われていた。
司祭が厳かに決まり切った質問を行う。
二人はそれぞれ肯定の意を示した。
彼がいまや妻となった娘…マナを抱き寄せる。彼女が恍惚としてベール越しに彼を見あげる。
次の瞬間、彼女はそのまま操り人形の糸が切れたかの様に床に崩れ落ちた。
声は出なかったがマナの口が微かに動く。
―どうして…?このからだの中にあるのはなに…?
そのとき起こったことが、彼女にはわからなかった。
そっと手を左の背中に伸ばすと冷たい金属の感触が伝わって来た。そして生ぬるく、濡れた感触が。
彼女自身の血だった。
それはまるで華が咲くかのように純白のドレスに拡がっていく。
しばらくの間、男は赤い液体が白いドレスを、純潔と清らかさの象徴を侵す様を眺めていた。やがて慣れた手つきで妻となった娘の首筋に指を当て、彼女の脈が無くなったことを確かめた。
「神の祝福があらんことを」
司祭の言葉に合わせるかのように、その場にいた参列者たちは十字を切り、祈りを捧げた。
まちがいなく彼が殺したのだ。
神の前で、自分の妻となった女を、純銀製のナイフで。
彼女は苦しまなかったはずだ。
職業柄、心臓の位置は知り尽くしている。そこを確実に刺し貫いた。
あのナイフは彼女の墓に入れたはずだ。
彼女の遺体の無い墓に、せめて代わりに、と。
マナはあれから焼き尽くされ、灰は風に飛ばされた。
それなのに…どうして目の前にあのナイフが落ちている?
声は再度、繰り返した。
「どうしてマナを殺した?」と。
彼は何から話したらいいか、頭の中を探り始めた。
彼にとっての始まりはほんの短いやり取りだった。
「私、兄さんに嫌われているのかしら」
「どうしてそう思うんだ、マナ?」
「何か最近、兄さんの様子が変なのよ…」
それは前からだ、とタイスは言いかけたがやめた。もうじき自分の妻となる娘との関係をここで気まずくするのはあまり得策とは思えない。
確かにマナの兄はかなりの変わり者だった。
無口。
無表情。
人付き合いは…悪い。
要するに、妹のマナ以外には誰に対しても平等に冷たく、無愛想だった。
「そこがイイの!」と、街の娘たちの間で人気は高いのだが誰とも付き合おうとせず、ましてや結婚しようともしない。
これだけならただの変わり者ですむ。
『ただ』から『かなり』になる理由は彼の仕事、狩りのやりかただ。
この小さな街そのものが周りを深い森に囲まれているため、狩りを生業とする者は割りと多い。
何人かでチームを組み、猟犬とライフル、あるいは罠を用いるのが普通だ。
彼の狩り方は全く異質だった。
ほとんど素手で、道具は全く使わないらしい。
らしい、というのは彼が狩るその現場を見た者がいないのだ。どうやっているのかは誰も知らない。出掛けるのをいつも見送るマナもガロンが他の狩師が持って行くような物々しい道具、ライフルとかトラバサミなどを持ち歩くのはおろか、手入れをしているのも見たことは無いと言う。
いつも携帯食と野営のためのちょっとした道具、そして捕らえた獲物を処理し、運ぶためのロープを持って森に入る。
そして数日後には鹿や熊、それもかなりの大物を狩って来るのだ。
恐ろしく腕が立つのは確かだ。
たった一人で狩る鮮やかな手並みと獲物を感じ取る『ちから』…獲物の気配を探り、追跡し、待ち受ける『ちから』は街の古参の狩師達も一目置いている。
そんな変わり者がたった一人の身内にまで「変だ」と言わせるとは…。
タイスには一つしか思いつかなかった。
「マナ…兄さんと喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩?どうして?」
「俺との結婚のことで何かこう…」
「そうじゃないの…ただ…」
そこまで言うとマナは口をつぐんでしまった。彼女は内心、迷っていた。
タイスはここいらでは数少ない医者だ。信頼もできる。
それでもタイスに話して良い事だろうか?
タイスは、というとマナの口から心配事が語られるのをじっと待っている。
何となく気まずい沈黙が二人の間に流れた。
「…コーヒー、冷めてしまったわね…入れ直して来るわ」
テーブルの上からカップと空に近いポットを取るとマナはキッチンへ向かった。
彼女の魅力的な細く締まったウエストを見送りながらタイスは思った。
女というものはわからない。
彼女は結局何が言いたかったのだ?あるいはただの気の迷い、俗に言うマリッジブルー(結婚直前の花嫁が不安に陥ること)というやつではないのか?
とにかく彼女には気晴らしが必要だ。
注ぎ口からかすかに湯気が立ちのぼるポットを手に戻って来たマナにタイスは言った。
「そういえば、今夜のパーティーに兄さんは来るのか?」
「多分行かないと思うわ。騒がしいのは好きじゃないって言ってるし…とにかく夜には出歩きたがらないわ…」 言われてみると、彼が酒場に出入りしたりするのを見たことがない。この際ちょうどいい。
「何とかして兄さんも出るように説得してみてくれないか?」
「どうして?」
「俺たちの結婚の前祝いなんだから、やっぱり彼にも出てほしいさ。それに、これを機会に話すことは話してすっきりした方がいいよ」
「…そうね…」
まだ不安げだが小さく笑ってマナは言った。それを見てタイスはいたずらっぽく付け加えた。
「それに、彼が出てくるかとやきもきしているお嬢さん方が結構いるからな」
「あら、もうじき結婚しようという方が、他の女たちの気を引こうっていうの?」
「まさか。みんなの精神を安定した状態に保つのは医者としての務めの一つみたいなもんさ。それじゃ、今夜のパーティーで。コーヒー、ありがとう」
タイスはそう言って診療所の方へ戻って行った。
不安だった。
自分、という者が何者なのか知ることが恐ろしい。
血を見ると胸が高鳴る。これは別に普通の事だ、と思っていた。
だが夜になると…特に月を見ていると自分の中の奥底にある…本能とか野生に近い部分から声がするのだ。
切リ裂ケ
解放シロ と。
そして首の辺りに切れ味の悪いカミソリを突き立てられるような痛みが走り、全身の血が逆流するのでは、というおぞましい感覚に襲われる。
恐ろしい。
自分が…自分の中の『何か』が恐ろしい。
今はまだ大丈夫だ。
だが不安は根拠の無いものではない。
わずかずつ、ゆっくりだが確実に痛みが激しくなって来ているのだ。
そのうち…そう遠くない未来、痛みに耐え切れず、『何か』の言うとおりにする時がくるだろう。そして自分はこの『何か』と対面する。真正面からだ。
そのとき正気でいられるだろうか?
まるで食前の祈りを捧げているみたい。
居間のテーブルで頭を垂れ、それを組んだ手で支えながら眠っている兄を見てマナは思った。
本当のところ、眠っていないのかも知れない。それでもマナは音を立てないよう、そっと隣の椅子に座った。―やっぱり疲れているんだわ…。
それだけは分かっていた。分かっていないのは彼の身に一体何が起きているのか、ということだ。
昨晩。
奇妙な物音で目が冷めた彼女は暗がりの中でのたうちまわっている彼を見た。
何かの苦痛に耐えるかのように頭を抱え込み、体を丸め、全身から冷たい汗をかいている。
「今すぐタイスを呼んでくる!」
飛び出そうとすると彼女の腕をつかんで引き留めた。恐ろしく強い力だった。それにひどく熱い。
ふり返った視線の先に、暗闇の中でもそれとわかる、強い意志でにらみつける目が一組、あった。わずかな燐光をはなっているように彼女には見えた。
「どうして…?」
彼女の質問に彼は弱々しく首を横に振る。
「大丈夫だから、誰にも言うな…」
「でも…」
「…頼む…それにもうじき収まる…」
あまりに真剣な様子に、彼女は彼を見守っていることしかできなかった。
結局、彼が落ち着いたのは明け方だった。
そして現在。
マナはまじまじと彼を見た。一見するといつもの兄だ。
視線に気がついたのか、彼はゆっくりと顔を上げ、目の前にいるマナを見た。
「…ごめん、起こした?」
彼はその質問には答えず、まじまじとマナを見ると言った。
「きれいだな…」
彼女は今夜のパーティーで着るミッドナイトブルーのドレスを着ていた。
「ありがとう…」
彼女は無言のうちに手にしていた物を兄に差し出した。
「これは?」
何なのか分からず、彼は尋ねた。
「あのね、もし兄さんが良かったら一緒に今夜のパーティーに出で欲しいの…服は用意したから…」
おずおずとマナは言った。またいつものようにはっきりと「否」と言うのでは…
「わかった」
あまりにあっさりと答えたので彼女は驚いた。それが顔に出たらしい。
「どうした、俺の顔に何かついているのか」
「ホントにいいの?」
「俺だってたまにはそんな気になるさ」
一瞬、マナの中でまた昨夜のような事が起こったら、という不安がよぎった。
だが彼女はそれを心の奥へ押し込めた。
パーティーにはタイスもいる。万が一の時はきっとどうにかなるだろう。
マナは慣れない服に戸惑うガロンの着替えるのを手伝う事にした。
あまりのまどろっこしさを見ていられなかった、というのもあるが、自慢の兄である。
見栄えが良いに越したことはなかった。
空が暗く、かげってきた。
じっと体を動かさずにいるので体温が急激に奪われて行く。だが彼が全てを語り終えるまで声の主は彼を解放しないだろう。仕方がないのでタイスは言葉を紡ぎ続ける。
あの夜…誰もが飲み、食べ、唄って、踊り、幸せにどっぷり浸かっていた夜。司会役のダイモンが言った。
「今から三分だけ明かりを消します。その間、好きな者にキスを!今夜はこれがハメはずす最後のチャンスだ!」
パーティーにありがちの余興が始まる。
明かりがすべて消され、窓から月明かりが差し込んだ。
満月の光はかなり明るい。
かすかな笑い声とさざめきが拡がった。
その中に突如、苦痛の声が混じる。そしてそれを案じる声が。
「どうしたの?大丈夫?」
「…れろ…俺から離れろ!」
暗闇の中で空気が、気配が一変した。
悲鳴が上がる。
「化け物!」
その場にいた者は凍りついたように月明かりに浮かぶその影を凝視した。
銀灰色の毛皮に包まれ、痩せて見えるほど引き締まった強靭な身体を持ち、両目は燐が燃えるように青白く光っている。
犬のようだがそれよりも大きく、身体にはもと服だった布をまとわりつかせている。
狼だ、と直感した者もいた。同時にただの狼ではない、とも誰もが思った。
誰かが叫んだ。
「月狂い(ワーウルフ)…!」と。
そのとたん、咆哮が響き渡り、影が跳躍した。ひときわ激しい悲鳴が沸き上がり、さらに大きな悲鳴を呼ぶ。
そして悲鳴と暗闇は混乱を引き起こした。
ガラスが割れ、人々がぶつかり合い、建物がきしむ音に、普段なら決して聞くことが無い異音が混じった。暗かったがタイスにはそれが何なのか解った。彼にとっては馴染みの気配だったから。それは人体が切り裂かれ、恐怖と苦痛から命の火が消える音だった。
血臭が拡がる。
ガラスが割れる音が再び響き、月狂いは外に飛び出した。同時に外から冷たい風が吹き込む。
明かりが灯され、部屋の様子が明らかになった。
「…酷い、無残な物だったよ。その場で死んだのがウル、レイジィ、カジマ…喉を切り裂かれ、あるいは内蔵をこぼしていたから助からないのは誰の目にも明らかだった。ロスマリンとマヌエラはその時の怪我がもとで三日目に死んだ。誰もが何かしらの怪我を負い、そこら中血だらけ、壊れた食器とその残骸で足の踏み場もなかったよ。着飾り、幸せな気分だった連中は惨めな気持ちで呆然と立ち尽くしていた…」
彼はあれから話を聞くだけで何も言わない、質問者の正体を確かめようとした。だが、同時に確かめるのが恐ろしかった。もしも、彼の予想通りの相手がいたら…多分自分は殺されるだろう。それもただ死ぬのではない。とてつもない苦痛と恐怖を伴うものだ。
逃げ出すにしても足の感覚が寒さでほとんど無くなっている。走れはしないだろう。
雪がちらつき始めた。
絶望的な気分で彼は語り続ける。
今はそれだけが彼が彼自身を生かすただひとつの手段のように感じられた。
あの月 狂いは一体だれか?
その答えはすぐに明らかになった。
あの混乱の中で部屋から出て行った人間は誰もいない。あまりの恐慌状態から出られなかったのだ。
窓からガラスを突き破って出て行った月狂いを除いては。
部屋から消えたのは一人。暗がりの中だが、目撃者の話も一致した。
月狂いは、マナの兄、と。
「…そんな…」
驚きにマナの目が見開かれ、顔色は青ざめていた。
比較的軽い怪我で済んだ誰かが言う。
「山狩りだ!すぐにでもヤツを狩り出して殺すんだ!これ以上犠牲者が出ないうちに!」
賛同の声が上がる。惨事の現場で手当が行われている、丁度その時だった。
一旦眠った街に明かりがつけられ、何事かと街の人間は全員その場にいた。
「意見、異議のある者は?」
怒りと恐怖、憎しみの熱が籠もった声が沸き上がる。「怪物を殺せ!」と。
だが、中から小さく、はっきりと一本だけ手が上がった。
全員がその手の主を睨みつける。
―一体誰だ!何がいけない?
手の主は今は引退している狩師の老人だった。
彼は静かに言った。
「人狼は確かにマナの兄なのだな?」
そうだ、と肯定の声。
「だったら今出るのはやめた方がいい。彼は一人で森の中を歩き、狩っていた。腕のいい狩師だ。逆に言うなら、隠れ潜むのが上手い。いくらこっちが大人数でも夜のうちでは分が悪過ぎる…」
「ならどうしろと?どうすればヤツを狩れる?」
「みんな疲れ、傷ついている。家に帰って夜明けまで休みをとることだ。そして用意を…伝説の通りなら鉛ではなく純銀の弾を用意しなくてはな」
はっとつかれたように熱が引き、人々は落ち着きを取り戻した。
人々は老人の言葉に従い、家に戻ると窓という窓、出入り口をしっかり閉め、鍵を下ろすとつかのまの休息を取ることにした。
休息は悲鳴で破られた。
家に帰っても不安で寝付けなかった者が敏感にそれに反応した。
壁に掛けていたライフル、それが無い者は少しでも武器になりそうな物を手に取ると悲鳴の元に駆けつけた。
悲鳴はマナと彼女の兄…正確にはマナしかいなかったのだが…の兄妹の家からだった。
中でマナが床にへたりこみ、宙をながめている。手には包丁が、肉をさばくための細く鋭いやつが固く握られている。
彼女の手と服は…血がついている。それも、まだ新しい血が、大量に。
「…マナ…マナ!しっかりするんだ!」
タイスが彼女の肩を揺さぶる。
「…ったわ…」
「何だ?何があった!」
彼女は目の前のタイスを全く見ていなかった。宙を見つめたまま、抑揚のない声で言う。
「…家に帰ってきてたのよ…兄さんが…水を飲んでいたわ…口についていた血で水が赤く赤く染まっていたわ…私が入ってきて『兄さんなの?』ってきくと…こっちに来たのよ…飛び掛かって…だからこれで刺したのよ…あれは兄さんじゃないわ…けだものよ…」
数人、外に飛び出し、血痕がないか探し始める。
タイスは彼女が新しく傷を負っていないのを確かめると、硬く手にしていた包丁をそっと取った。
「マナ、もう大丈夫だ…大丈夫だから安心していいんだ」
マナは安心したのか、そのままタイスの腕の中で気を失った。
日の出と共に『狩り』が始まった。
「相手は手負いだ!血痕を探せ!犬に匂いを拾わせろ!」
徹底した狩りが行われたにもかかわらず、その日、彼は捕まらなかった。
血痕は途中で消えていた。犬は迷い、匂いを捕まえられず、戸惑い、同じ場所を回り続けた。
「匂いがどこにもない、あるいはありふれ過ぎている」と犬使いが言う。
次の日も、その次の日も、月狂いは捕まらなかった。
人々は疲れて来た。
ある夜、タイスは夢を見た。
自分が狼となっていた。青白い月の光が微かに差し込む森の中を奥へ、奥へと彼は走っていた。逃げていたのだ。仲間、かつては『家族』だった人間達から。彼は立ち止まって自分の両手を見た。弱い月の光の元でもはっきりとわかる、どす黒く血に濡れた手だった。生暖かいが異常に冷たい。彼は恐ろしさと悲痛から絶叫した。わずかに歓喜が混じったそれは既に人の語ではなかった。帰りたかった。危険だと解っていたが、彼は街に戻った。家に戻り、乾いた喉を水で潤す。血の味が拡がった。自分のものではない、鉄錆の味が。コトリ、と人の気配がした。「…なの?」恐れの混じった問いに振り返るとマナがいた。彼女は血に染まった毛皮を見て、短い悲鳴を上げた。夜の間、家の中に入れられる鶏たちが驚き、羽ばたきだす。彼女はそのうちの一羽を捕まえ、手早く絞め、首を切った。血が吹き出し、彼女はそれを浴びた。かすかにまだ動いている鶏を差し出しながら彼女は早口で言った。「これを持って逃げるのよ!そしてここにもう戻って来てはいけないわ!殺されるわ!あとは私がどうにかするから逃げるのよ…!」彼は戸惑った。
「行って!出てって!」彼女は手にしていた血に濡れ光る包丁を振りかざした。彼は鶏をくわえて再び森に入った。それから長いながい悲鳴が街中に響き渡った・・・。
その瞬間、彼は知った。彼女は裏切った!街の人間を、そしてこの俺を!人狼を逃がし、嘘をついた! そこで彼は目が覚めた。
許せなかった。
「…だから殺したのか?」
淡々とした声だった。まるで今降って来ている雪のように。雪はさっきよりも激しくなって来たように彼には思えた。寒い。歯の根が合わなくなって来ている。寒いのは恐怖のせいもあるのだろう。彼は答えた。それは悲鳴に近かった。
「そうだ!あの事件から恐怖と不安、疑心暗鬼に憑かれて生け贄を、スケープゴートを求めていた街の連中を説得するのは簡単だった!彼女もひょっとしたら月狂いじゃないかと疑っているのはたくさんいたんだ!街に漂うようになった『暗さ』を払うためにも結婚式は予定通り行われることになっていた!街の人間すべて公認で俺はマナを殺した!彼女を愛していたんだ!だから裏切りが許せなかった…!」
疲れで立っていられなくなったタイスは雪の中にへたりこんだ。手足の先の感覚が全くなくなっている。
声の主が言った。
「…お前が話している間、俺はどうやってお前を殺してやろうか、とずっと考えていた。俺に知らせに来た時、お前はマナを絶対幸せにする、と言っていたからな。偽りを弄した代償に、体の先から爪で切り裂いてやろうか、それとも噛み裂いてやろうか、と」
タイスは身をこわばらせた。
「だがそれは『けだもの』のすることだ。俺は…人間だ。怒りにまかせてお前を殺すのは簡単だが、そうはしない」
驚き、彼は一度閉じた目を見開いた。何も見えない。雪が激しくなっている。じきに吹雪になるだろう。
「早く俺の前から失せろ!」
タイスは転がるように駆け出した。一体どこにそんな力が残っていたのか、という駆けっぷりだった。
夜目の効く獣の目でその様子を樹の上から眺めながら、彼は自分の体が冷えているのに気づいた。特に両手が。
だがそれ以上に心が冷たかった。
COMMENT===========================
月の光さえ肌を刺し貫く痛みをもたらす。
水 を厭いまるで獣、そのもののようなうなり声をあげ暗闇を求める。
Rabies = 狂犬病
■ 正面玄関